このヘンリー・ダーガーという人の生涯を追ったドキュメント映画を見て,激しく心を揺さぶられてしまいました。未だに揺れてます。なので今回はちゃんと感想が書けるかどうか分からないけど,チャレンジしてみます!
まずは映画の予告編です。
私が映画を見る前に知っていたことは「病院の清掃人をしていた身寄りの無い孤独が老人が死に,その部屋から1万5000ページにも及ぶファンタジー小説が見つかった。それには極彩色の挿絵が付いていて,死後にそれらがアートとして評価されるようになった」ということだけ。
私はダーガーが孤独な人で,だから空想の世界で遊ぶようになったのだと思っていました。
映画はダーガーの隣人や大家へのインタビューと,ダーガーの描いた絵をアニメーション化した映像で構成されています。隣人や大家の話しぶりやエピソードなどを聞いていて思いました,「あぁ,ダーガーは確かに愛されていたんだ」と。ダーガー自身は他人と上手くコミュニケーションが取れない性格だったそうで,自身が愛されていたということに気付いていたかどうかは分かりません。でも確かに愛されていて,だからこそ大家はダーガーの作品を捨てずに保存して美術界に紹介する努力をした。そして5年の歳月をかけてこういう映画が作られた。その映画をダーガーの故郷シカゴから遠く離れた日本で私が見ている。
なんだかその事実に胸がいっぱいになってしまいました。
一つの問題として「ダーガーは自分自身の作品がこのように取り上げられることを喜んでいるのか?」というものがあります。1万5000ページのファンタジー小説は自分自身が読むために書かれたもので,他人が読むことは想定していなかったと思います(挿絵も同じ)。
大家が小説と絵を発見したのは,ダーガーが老人になって入院した後です。その作品を見てびっくりした隣人がダーガーにそのことを告げたときのセリフをうろ覚えで引用。
君の作品を見たよ,素晴らしかったと病院でダーガーに告げると白目を剥いて応えた。不意打ちのパンチをくらったボクサーみたいだったよ。自分の日記帳を読まれたみたいな気分だったのでしょう。そのときは喜んではいなかったと思います。
でも「文章を書く」「絵を描く」というアウトプット行為をするということは,いつか他人にそれを見られるということを無意識にでも想定してないとやらないと思います。(だから本当の心の底では喜んでいたのでは?)
ダーガーは独学で絵を学んだため,いろいろと独自の手法を編み出しました。映画を見て「これはダーガーは喜ぶ」と思ったのは挿絵をアニメーション化した部分でした。非常にファンタスティックで素晴らしい。本当はダーガー自身がやりたかったことを実現していると思います。ちなみにアニメーションは7人のアニメーターで相当苦労してやったそうです。その中にはダーガーのファンが何人も居たそうな。
何で私はこの映画を見てこんなにも心が揺さぶられてしまったのか? それは「私自身がダーガーだったかもしれなかった」から。
サルノオボエガキ: 昔のフロッピーを発掘した
上の記事で中学高校時代に小説を書いていたことを書きました。そのときの私の頭の中にはいくつものアイデアが渦巻いていて,なんとかそれを吐き出そうとして小説を書いたのでした。家族には見せたことがあったけど,ほとんど自分が読みたいものを自分のために書いていて,他人に見せたことはありませんでした。
私はダーガーほど才能は無いと思いますが,そのときの私はダーガーの縮小コピーだったと思います。だから映画のダーガーにすごく感情移入してしまいました。
私は上記のことを思い出してから非現実サンクリストバルという自作小説を発表するためのサイトを作りました。昔は自分で書いて自己満足していましたが,今は何とかして他人に自分の感じた美しさ/悲しさ/怒りなどを伝えられないか,と考えています。
なんだか,感想がまとまらなくなってしまいました。この映画を見て「表現するということは何か?」「メッセージを伝えるということの意味は何か?」などなど,いろいろと疑問が渦巻いて未だに消化できずにいます。
これからゆっくりと「ダーガーという人が存在していた意味」を考えていきたいと思います。